3話 大切な言葉
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ポツポツと、水滴が頬に落ちた。
はっとしてまぶたを開けると、とても高い位置にある、黒い岩肌が目に飛び込んでくる。
アスミは半身を起こそうとして、激しい痛みに顔をゆがめた。
筋肉痛と擦り傷と、心の痛みとがごっちゃになって、アスミの全身を苛んでいる。
それでも何とか起き上がり、周囲を見回した。
「ここは……!」
思わずあげてしまった声が、だだっ広い洞窟の中で反響する。
アスミは平らな岩の上にいた。
形状といい広さといい、ベッドにするにはおあつらえ向きの岩である。
どこからも光が差し込んでいないのに、あたりは適度に明るくて、岩に囲れた湖はなぜか青く光っていた。
湖はたっぷりとした水をたたえ、湖面は穏やかに凪いでいた。
と思いきや、やがて湖の中央に小さな輪が浮かび上がった。
輪は瞬く間に広がっていき、直径を広げながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
(何かいる……)
アスミは座ったまま、後ずさった。
輪は水際の近くでぶくぶくと泡立ち、その中央を突き破るようにして、1人の男が現れた。
背の高い人だった。
上半身は裸で、細いが筋肉のついた逞しい体をしている。
肩まで伸びた黒髪が、水に濡れてシャープな頬に張り付いていた。
彼が体を一振りすると、水滴が体から一気に飛び散り、濡れ髪がさらりと風になびいた。
周りの空気をしん、と一変させてしまうような、美しい顔立ち。
間違いない。
崖の上で会った、あの男だ。
男はゆっくりとアスミに近づき、ひざまづいた。
顎がつままれ、くっ、と上向かされる。
「アスミ」
男は彼女の名を呼んだ。
よく通るバリトン。
確かにこの声には聞き覚えがある。
ゴクリと唾を飲み込みながら、アスミは尋ねた。
「……もしかして、あなたはドラゴンなの……?」
「ああ」
男は頷く。
(やっぱりそうだったんだ……)
予想していたにも関わらず、アスミは激しいショックを受けていた。
うさぎやカラスが口をきく世界だ。
人間に変身するドラゴンがいても不思議ではない。
しかし目の前にいるこの人は、アスミがいまだかつて見たこともないほど美しく、猛々しい姿のドラゴンとは印象がまるで違っていた。
口から吐き出すオレンジの炎で、村をあっという間に焼き去った、あの冷徹な獣と同じ存在だとは思えない。
思いたくない。
「俺の名前は健太郎。呼び捨てでいい」
男はそう言うとつまんでいたアスミの顎を上向かせ、綺麗な顔をぐっと間近に近づけてきた。
(え……?)
唇に生温かいものが触れ、アスミは両目を見開いた。
長く滑った舌が、口腔に入り込み心拍数が一気に上昇する。
「ん……んん……」
アスミは健太郎の胸に両手を当てて押しのけようとした。
しかしくちづけが深まるごとに、頭の中がクリアになってきて、その明らかな変化にはっとして動きが止まる。
(何なのこれ……)
さっきまで激しく痛んでいた体が、癒されていくのがわかる。
全身を覆っていた倦怠感が去り、活力がみなぎっていた。
彼の胸元に伸ばしかけていた両手が、だらりと垂れる。
胸を激しく上下させながら、アスミは至近距離にある彼の目を見た。
黒い瞳の中に、何かを喰らいつくしてしまうような、獣じみた感情の色が浮かび上がっているのを、アスミははっきりと確認した。
(ああ……やっぱり、この人はドラゴンだ……)
激しい恐怖とともに、アスミはそう確信した。
長く冷たい指先が、アスミの喉をそっとなぞる。
この指が自分の急所を探り当てれば、アスミはあっけなく死ぬだろう。
アスミは彼によって救われ、そして奪われる己の命を思い描いた。
恐ろしい。
混乱のあまり、彼の手が全身を這い回っていることに、アスミは気がつけなかった。
長い口づけが終わると、健太郎はおもむろに体を離した。
「はあっ……はあ……」
激しく喘ぎながらアスミはふと、腕にあった麻縄による擦り傷が消えているのに気がつく。
(え……?)
目の前に健太郎がいることも忘れ、アスミは薄い白装束に包まれた己の肌に触れてみた。
「傷が……治ってる……!」
「俺が癒してやったからな」
アスミはハッとして顔を上げた。
「半日吊るされてた割に、ダメージ少なかった。舐めて治すような傷跡はなかったからな……お前、見た目によらず結構タフだな」
舐めて治す……?
そう言われてアスミは彼の手のひらが、全身を這い回っていたことに、今更ながら気がついた。
あれはアスミを治すためだったのだ。
おそらくは唐突なくちづけもそのために……。
アスミは座ったまま尻でじりじりと後退った。
「何が目的なの」
「は?」
健太郎は虚をつかれたように首をかしげた。
「私を癒す理由は何? 一体何を企んでるの?」
昨日、彼は村に火をかけ、多くの人を殺めた。
そんな人間……いや、獣が見返りもなしに自分を助けてくれるわけがない。
健太郎の目が細められ、酷薄そうな表情が唇に浮かんだ。
再び距離が縮められ、ゾッとするほど綺麗な顔が間近に迫る。
両手が大きな手のひらに挟まれ、強い力で上向かされた。
さっきとは違う、乱暴な動きに、アスミの心臓は大きく跳ねる。
「随分躾の悪い女だな。それが命を救ってやった恩人に見せる態度か」
「そんなこと私、頼んでない」
アスミは震えながら健太郎を睨んだ。
確かに自分は「生きたい」と言った。
しかし具体的なことは何も言っていない。
村を焼き払ったのも、傷を治したのも、全部健太郎が勝手にやったことだ。
アスミには何の責任もない。
「……なるほど、な。じゃあもう一度時を巻き戻すか」
「え?」
意外な言葉にアスミの瞳が左右に揺れる。
「この世界は、何度も同じ時を繰り返している。ほんの数日前に戻すなど容易いことだ。時の館にある時計の針をほんの少し前に戻せばいい」
アスミはぎょっとし、健太郎は高らかに笑った。
「ほらな。そんな覚悟などないくせに」
「…!」
「口だけなら何とでも言える」
アスミの顔に全身の血が上ってくる。
彼に図星を突かれ、このまま消えてしまいたかった。
またあの崖っぷちに吊るされるのかと想像しただけで、心臓が爆発しそうなほどドキドキする。
そんな自分が情けなくてたまらない。
健太郎の手がアスミの頬をねじり上げた。
「命を救ってくれてありがとう、と言え」
「それは……」
「言うんだ」
アスミの目尻に涙が浮かぶ。
彼に感謝の気持ちを示してしまえば、全ての責任が自分にのしかかってくるような気がしていた。
今までに起きた一連の出来事が、自分のせいだと認める気がして、そんな重圧に耐えられないと思ってしまう。
だけど。
「ありがとう……私の命を救ってくれて」
口にした瞬間、右目から涙がポロリとこぼれて落ちた。
無理やり言わされた言葉ではあるが、発した瞬間、それは心からの想いになる。
(私はこの人に助けられた。この人のおかげで、今、こうやって息をしてる)
健太郎の目が、優しげに細められる。
「お前を助けた理由を言ってやろう。俺の花嫁にするためだ」
「え?」
彼の左手が後頭部に添えられる。
「今度は癒すためじゃないぞ」
熱い吐息が唇にかかり、条件反射のように目を閉じる。
唇が重なり、熱い舌が口の中に入ってきた時、アスミはさっきの行為が、文字通りただの治療だったのだと、心の底から思い知る。
二度目のキスは とろけるように優しくて_。
まるで夢の世界に連れて行かれたみたいだった。